攝取山蓮池院と号する、浄土宗の寺院で元新宿西念寺の末寺。
創建は貞応元年(1222)で、法海が草庵を結んだのが始まりといわれている。 元仁元年(1224)五月、親鸞が常陸国稲田(現在の茨城県笠間市)から三人の弟子とともに葛西清重の館に赴く途中、五月雨にあってしまったので雨をしのごうとしていたところ、法海の読経が聞こえたため、親鸞たちは清重の住んでいる渋江の方角を法海に尋ねた。
それがきっかけで、法海は親鸞の弟子になり、随信坊と名乗ったと伝えられている。 親鸞は渋江と金町を往復して布教につとめ、六月には常陸に戻ったものの、貞永元年(1232)帰洛の際に、当寺を再訪したとされる。
そのときの送別にあたって、親鸞から光増寺の名称を授けられ、さらに親鸞は三方正面の阿弥陀如来画像の裏面に、中央には六字、左右に五字・十字の三名号と花押を据えて法海に与えたと縁起に記されている。
文政元年(1818)境内の鏡ヶ池に一茎に三つの蓮花が咲くという奇瑞が起こり、親鸞から授かったとされる阿弥陀如来画像と名号を両軸に仕立て直し、いずれも寺宝として今に伝えている。
戦国の兵火により一時荒廃したが、天正十年(1582)再興の折に浄土宗に転じているが、江戸時代になっても親鸞の命日には取越法要が持たれ、江戸からの参詣者が多かったと伝えられている。
光増寺略縁起当寺は、蓮池院攝取山光増寺と称し、親鸞聖人の直弟随信坊法海上人の開基である。
聖人御年五十二才、人皇七十七代後堀河帝の元仁元年五月三日稲田より、葛西壱岐守清重の請により、渋江の館に御巡賜の砌、真弟善性房鸞英、順信房円慶、蓮位房喜俊の三弟子と共に、念仏誦経の声聞ゆるここ金街の柴の菴に一夜を明かされ、他力念仏の深意を懇に説き給い、菴主法海随喜の余り、速かに師弟の約を結び髄信坊と名を賜ふたのである。
其の後渋江と金街を往還して念仏弘通に身命を惜まれなかった。
九年を過ぎ、聖人六十才稲田より都へ御帰洛の折、貞永元年八月十一日、当菴に御立寄りになり、道俗を集めてお別れの法筵を開かれ聖人御法悦の余り、光明遍照、十方世界念仏衆生攝取不捨の意を、
明暮れに思い染めぬる花の戸や 我が身を護る光り増すらん
と、御詠あり、聖人御自から光増寺と名付け給うたのである。
又、其の時境内の鏡ヶ池に月を眺め給いて
色も香もいやまさりけん蓮葉は 五百八十すぎて六つ歳は見む
と感慨一入無料の御様子にて一首給うたのである。
其の後三百数年浄土真宗として法灯を伝えたが、戦国兵乱の余禍を蒙り、九世随意入寂の後、堂宇荒廃し寺統危く絶えんとした。
然るに天正十五年七月、芝増上寺末学照蓮社常誉上人其の法灯の絶えるを憂い仏閣を再興して、鎮西の正流を伝え浄土宗となり、今日に至ったのである。
|